『疑う』とは「信じる」の対義語ではない

辞書的には対義語みたいですがね。実際問題、疑うの対義語を信じると思うのは無理だし危険なのです。

まずは論理的な話。

疑うとは、端的に言えば「信用できるかどうか分からないと思うこと」です。信じるには疑問が残っている状態のことです。
思っているだけなので確定的な結論が出ていない状態。正しいとも間違っているとも明確にできない状態です。この言葉の論理的な対義語は、『疑いのない状態、確定的で明白であること』です。

じゃあ明白ってことは信じることだ!と短絡的に考えてはいけません。信用に足らないこと、間違っていることが明白になっても疑いのない状態と言えるので、信じると疑うを対義語とするにはかなり疑問が残ります。
論理的には「信じる」の対義語は「信じない」、「疑う」の対義語は「疑う余地がない」「明らか」の方がしっくりきます。
「信じる」の対極は「信じない」であって、「疑う」とは信じる・信じないの中間点にしか存在しません

 

次に実生活による現実問題。

これも端的に言えば、信用に足ることを証明するために検証するわけですが、この検証という作業そのものが『疑うこと』と同意義なのです。疑わなければ信用できるかどうかも分からないのが実生活上での現実です。
結果、信じると疑うを対義語としてしまうと、信じるということは疑わないこと、証明なく信用することを強要してしまうことになります。

これは詐欺の手法そのものです。疑わなければ信用することも適わないはずなのに、信用と疑惑を対比させることで人の倫理や道徳的な心理を突いて、不都合な事実に目を向けさせないための手法として機能するわけです。

少なくとも、検証や論証、証拠という『疑うこと』が信用創造機能としてシステムに組み込まれている現代社会では、疑うことと信じることはプロセス上、同じ流れのものであり、これらを対義語、相反する思考としてしまうと矛盾が生じるのです。

 

以上の面から、信じることと疑うことはむしろ共存関係にあります。これらは『あくまで日本語の辞書上での形式的な対義語』であって、『現実生活では決して対義語と解してはならない言葉なのです。

 

疑うことができない人はただの信者であって、自分や自分の信じる何かが正しいかどうかを疑うことができない以上、自分の信じるものの正しさは目的の範囲外なのです。

最近の政治的な発言で、いわゆる信者と言われている人の本質はここにあります。『正しく疑えない人は正しく信じることもできない。正しく信じることができない人は正しく疑うこともできない。』

宗教でも政治でも、信者が自分の正しさを盾にしだすと暴走する理由は、信じることと疑うことを対義語を誤って解釈しているからに他なりません。

『疑う』とは「信じる」の対義語ではない” への2件のコメント

  1. こんばんは

    面白いお話ですが、そもそも「信じる」と言う言葉自体、「疑う」と同様に『正しいとも間違っているとも明確に出来ない個人的なスタンス』に過ぎないのではないでしょうか?

    つまり明白なことは信じる必要すらありません。それは単なる「事実」になるでしょう。

    不明確であるからこそ疑念が湧きますし、信念が湧きます。

    そして疑うことと信じることは、0か100ではなくグラデーションするものかと思います。人が信じる信じない(疑う、疑わない)で揺れ動くのはそのためでしょう。ちなみに完全に信じる方へ振り切れてしまえば(信念の暴走)盲信と言います。

    つまり不確定な状況に対する個人のスタンスであり、明白な物事や真実や事実は「信じる、疑う」とは全く相容れないと思われます。

    • コメント、ありがとうございます。

      事実については信じる信じない疑う如何によらない、とのことですが、この事実、特に客観的事実と言うことの怪しさ疑わしさというのは学術の世界では常に意識されていることです。
      有名なところでいえば、ニーチェの『事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。』のような言葉で表現されています。
      また、人間はその構造上、認識したものしか事実にならないという精神構造を持っています。
      結局、個々の人間の主観に基づき認知、認識、解釈したものしか人間は理解できないのです(人文科学、社会科学、自然科学の枠を超えて、すべての学問の基礎に論理学があるのはそのためです。)。
      人が『事実』というときであっても、その構成はあくまで人間の主観というフィルターを通しているのです。

      あなたは事実は無謬だということですが、その事実があくまで個人個人の主観に基づく以上、無謬であることはあり得ません。
      このような人間の性質上、可能な限り客観的に事実であることを共通認識として信じるに足るように主張し証明するためにも疑うという行為は使われている、という話が本記事の主題の子細な内容であります。
      疑うことで信憑性をシミュレートし、十分な信憑性があるかどうかを証しなければ、本当に信じるに足るものに近いかどうかは分からないのが人間の固有の性質です。

      他方、信じる信じないの間が漸次的である、という話はあなたの言うその通りでもあります。
      また、信じる信じないのみならず、世界のほとんどが漸次的であって明瞭な区別などはほとんど無いというのが実際です。
      光スペクトラム、要は虹の色は日本文化では7色と表現されますが、実際は可視光線の範囲内で波長が漸次的に変化しているので色の区別は本来はありません。
      動植物の種についても同様です。
      新種などと言われますがそれは人間の決めた区分によって発生しているだけであって、生物で全く同一の個体が存在しているわけではないです。
      ここからここまでの性質を持っていると人間が判断して区分しているにすぎません。

      お分かりだとは思いますが、要は人間の解釈で区切りをつけて基準を作っているに過ぎないということです。
      人間は区切ることで外界を認識しています。この区切りの重要な要素が『言語』です。

      言語が区切りの要素である以上、信じる信じないに人間の思考が及ぶということは、漸次的な信憑性に対して一定の基準で区切りをつけて足切りを行っていることになります。
      信憑性となれば、前段の疑うことによる信憑性の検証・評価の話に通じることです。

      上記の話を踏まえたうえで、疑うが信じるという言葉の対義語ではない、ということの詳細な話をすれば、
      疑うというのは信じる信じないを決める過程、前段階に他ならないので対義にはならない、ということです。

      人間の精神性や知的活動、知的認識活動の本質を考えれば、疑わない前提に基づく信憑性や客観性、事実なるものほど信憑性が無いものはない、ということです。

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